但東ブログ

国策に散った満州開拓団の夢,平和学習,農家民泊,但東
1944(昭和19)年、但東町高橋村の479人の人々は国策として旧満州(現中国北東部)へ農業開拓団として移住しました。「第十三次大兵庫開拓団」と声高に喧伝され、国よって徴収された中国の大地を文字通り開拓していました。

そしてこの479人が1945(昭和20)年8月、入植先の川で384人もが集団自決として入水し、その後収容所の過酷な環境下によって死亡した人を含め計345人が犠牲になりました。

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この重く苦しい戦争の悲劇を語り、伝えるため、但東町のボランティア団体が、1946年(昭和21)年に帰国できたわずか119人のうちの一人、石坪馨少年(現在87歳)の証言をもとに、語り部として紙芝居にて伝えてくれます。
ぜひ中学生や高校生など若い皆さんに学んでいただきたいプログラム、平和学習「国策に散った満州開拓団の夢」です。

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満蒙開拓団、高橋村の人々においては兵役の召集は免除される約束が反故にされ、45年7月の「根こそぎ動員」で働き手がいなくなり、お年寄りと女性、子どもたちだけになってしまいました。そこへシベリア軍が侵攻、終戦前夜、着の身着のままで帰国をめざしました。

“日本は負けた”事実は知れ渡ります。

帰国どころか、暴徒による執念な追跡、暴行を受け、結局脱出に失敗します。
石坪少年は振り返ります。
「戦争で勝った、それがおごりになった、そしていじめた…それがこんな悲劇を導いた。」

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たった3日の飲まず食わずでしたが、追い詰められていました。
「すでに武器は8本の日本刀しかない…」
「もうこれ以上逃げ切れん」
「じゃあ死のう」

武器がなければ集団自決、玉砕…そんな教育を受けてきました。

「私たちのお墓は誰も花を供えてくれへん、自分らで花を供えよう!」
若い女性は広場に花を集めた。念仏が聞こえた。故郷、高橋村のことを語り合った。暴徒は高橋村の人々を取り囲んでいたが、なんだか静かな時間が流れた…

紙芝居の語りは、もの悲しく、淡々とつづられます。

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孫を包帯で縛って、自らは石を抱いて飛び込む老人。「死にとない!」泣き叫ぶ我が子を、崖から冷たい川へ突き落とさねばならない母親はどんな気持ちでしょうか?

8月でも冷たい激流。下流を見ると、死んだ者の衣服をはぎ取る暴徒。地獄絵図。石坪少年ほか数名は「この事実を本国へつたえよ」という命を受け、自決現場を脱出し、逃亡を続けます。

しかし暴徒につかまり、収容場へ抑留され、数少ない生存者とともに強制労働、チフスなどの蔓延する病気、不衛生…きわめて過酷な環境で耐える日々が続きます。

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石坪馨少年、現在87歳。
ハルビンなど、地理的、気候的な環境を交えて、くわしく、そして強く語っていただけます。

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「今日はたくさんのことを伝えます。」
「そしてたくさん考えてください。
そしてこれからの日本について、考えてください」

紙芝居は神戸新聞社さんが動画でアップしてます。
「国策に散った満州開拓団の夢」
満州の悲劇、紙芝居に-開拓団の集団自決

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但東町の高橋地区公民館には「第十三次大兵庫開拓団」の遺品などが大切に展示され見学ができます。集団自決があった8月17日には今も追悼式が行われています。高橋地区公民館は平日であれば見学自由です。

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すぐおとなりの一宮神社(但東町久畑)には大兵庫開拓団殉難者之碑前があり、犠牲になった方々全ての碑銘が刻まれております。お立ち寄りのうえ、手をあわせていただければと存じます。

沖縄や広島での平和学習の少し前に、但東町高橋村の悲劇について学んでみませんか?これはいのちの教育に含まれる、但東町農家民泊の平和学習です。兵庫県のはずれ、ここでも、悲しい戦争の事実が語り継がれているのです。

 

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